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(二) ノアの系譜(3)セムの子孫 [神聖の系譜]



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『神聖の系譜』
メソポタミア〔シュメール〕
ヘブライ&日本の古代史
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦 
 
第二部 メソポタミアとイブル〔ヘブライ〕
 第一章 旧約聖書「創世記」とメソポタミア
  
  (二) ノアの系譜 (3) セムの子孫
  
  セムの子孫はエラム、アシュル、アルパサデ、
 ルデ、アラムであった。 
 
 エラム Elame:鹿を意味する国名で、
  スーサ Susa(大麦の種)を首都とする。
  またルリスタンという。
  これも鹿を意味する。
 
 アシュル Assur:アッシリアの首都名。
 
 アルパクサデ Arphaxad:アルパチヤ遺跡の地、
  〔牛頭の領土〕あるいは〔牛頭の首〕の字義。
  セム語による、
  alp(牛頭)-xa,<Kiasdu>(首)-d"do(土地)。
 
 ルデ Lud:現シリアにいた人々、
  創世記に
  「カナンの地にあるルズ、すなわちべテル」
  とあり、ヤコブが旅の途次
  「天の門」を夢みて「神の家」といって
  べテルと改名した地である。
 
 アラム Aram:現シリアの高原地方に居住し
  南メソポタミアまで進出した部族名。
 
 (a) アルパクサデ
  アルパクサデの子はシラ、
  シラの子はエベルである。
  エベルにふたりの子が生まれた。
  そのひとりの名をペレグといった。
  これは彼の代に地の民が分かれたからである。
 
 アルパクサデはニネヴェの近郊の遺跡名
 アルパチヤに係わる名称である。
 
 シラ Salah はニネヴェからチグリス川を
 下ったチクリット Tikirit の町の南に広がる
 平野サラ・アデン Salah Addin に
 係わる名称名称と推測される。
 
 ここにはサマッラ Samarra があり、
 サマッラ式土器の遺跡がある。
 
 エベル Eber はシュメール語 bal の
 セム語における同義語 eberu に
 係わる用語である。 
 
 その語義は
 「交差する、追越す、更に延ばす」である。
 シュメール語 bal はまた「十字」を構成する
 用語であったとことからすると、
 スバルのセム語化と考えることもできる。
 
  アルパクサデを
 アルパチヤの地とすることは重要である。
 
 セム族を「供犠の人」と考える
 要因であるからである。
 
 創世記は
 「セムはエベルのすべての子孫の先祖」
 と述べている。
 
 エベル Eber の語義「追越す」はまた
 「過越す」の意味であり、
 ヘブライの祭事
 PSKh パサハ(Satrai その晩餐)
 過越しの祭り(英語で Passover)に
 関連する用語である。
 
 エベルはヘブライ人の父祖アブラハムに連なる。
 
 創世記第十〇章、一一章をまとめると
 セムの系図は次のようになる。
 
  セムーアルパクサデーシラーエベルー
 ぺレグーリウーセルグーナホルーテラー
 アブラム(アブラハム)
 
 (b) ペレグ
  ペレグ Peleg は
 「これは彼の代に地の民が分かれたからである」
 と記しているとおり「分別」を意味する。
 
 シュメール語の bar (分ける) 、
 セム語の parasu (分別)と同類である。
 
 ペレグはパキスタンのバローチスタンを
 中心に居住するバローチ Balcc 人と関係する。
 
  バローチ人は、現在(一九八〇年代の統計)
 パキスタンに二六〇万人、
 アフガニスタンに二〇〇万人、
 イランに一二〇万人、
 オマーンに一万人、そして中央アジアの
 トルクスタンに一万五千人が居住し、
 バローチ語を使う民族である。
 
 パキスタンのクェッタが
 その文化的中心地で、
 その民族ニムロデで四五〇〇年前
 故地アレッポを離れて地方に移動し、
 ペルシャの南部を経て、
 紀元前十四世紀頃バローチスタンに
 侵入して来たという。
 
 しかし、
 その伝承全部をそのまま受け入れる
 ことはできない。
 
 つまり、
 ニムロデを祖とする人々の故郷は
 メソポタミア東部であって
 アレッポ Alepo 市のある
 北シリアではないということである。
 
 あるいは、
 彼等の故郷は北シリアのアレッポであるが、
 祖神ニムロデは移動の途中獲得した
 神名と判断すべきなのか。
 
 バローチ語における祖国を表す用語は dajar で、
 イラク東側の川名及び地方名と共通する。
 このことを考慮すると、
 その故郷はメソポタミアであったと思われる。
 
 結局彼等のいうアレッポは北シリアの町ではない。
 
 当該地はアルパチヤ遺跡の地、
 創世記にいうアルパクサデで、
 Alp が訛りアレッポと伝えられたものである。
 
 アルパクサデより四代前のぺレグの時代、
 それが彼等の伝承では今から四五〇〇年前、
 つまり紀元前二五〇〇年頃故郷を離れて
 移動し始めたということになる。
 
 アルパチヤの地域には
 現在ニムロデと呼ばれるカラクがあった。
 
 バローチ語で「角」を Kant といい、
 「法律」を Kanud ということは
 すでに述べたことがある。
 
 水シュメール語と同じ ap で
 灌漑を apkari というなど
 シュメール語と同祖とみられるものが多い。
 
 紀元前二五〇〇年頃にはアッカド人が
 南メソポタミアへ向かって流れ込んで来た。
 
 二五〇〇年にはサルゴン王が
 シュメールを制圧しアガテに王宮を建て
 支配するようになった。
 
 その圧力で移動を開始したのである。
 
  移動を始めたぺレグであるバローチ族は
 ザクロス山脈の南端に向かって行き、
 イランのケルマン地方に
 長期活動していたとみられる。
 
 ケルマンの名称は彼等が持ち込んだものであり、
 ホルムズ海峡を渡った仲間があったのである。
 
  分裂したエベルの支族のうちのいくつかは
 移動せずメソポタミアに留まっていたとみられる。
 
 そして創世記においての五代後テラは
 カルディアのウルをその子アブラムなどの
 一族を連れて出立して
 北方のハランに向かったということになる。
 
 その時期は紀元前一八世紀頃とみられる。
 
 なぜかというと、
 ヘブライ人たちがエジプト行きを決めたのは
 「ヒクソスのエジプト侵入」
 の流れに乗ったものと考えられるからである。
 
 侵入が始まったのは
 紀元前一六七〇年頃からという。
 
 そして、
 モーセの出エジプトの伝説の舞台は
 紀元前一二三〇年頃とされる。
 
 テラ、アブラムが南メソポタミアを
 後にしたのは東北方面から徐々に侵入して来た
 カッシート王朝を築くカッシー人に
 押し出されたからである。
 
 ※参考:ノアの子孫 セム・ハム・ヤペテの拡散
 
 セムの子孫
 
 セムの子孫は「東の高原地帯」(メソポタミア)
 に定住します。(創世記10:30)
 
 ノアは
 「ほめたたえよ。セムの神、主を。
  カナンは彼らのしもべとなれ」
 とセムを祝福します。(創世記9:26)
 
 セムの子らはエラム(イラン)、
 アシュル(イラン)、
 アルパクシャデ(サウジアラビア)、
 ルデ(トルコ)、
 アラム(イラク)に定着します。
 
 セムの子孫はメソポタミアの地に定住し、
 子孫を残していきます。
 その中心には「セムの神」があり、
 やがて、
 テラがウルからカナンの地を目指して出発し、 
 その後、
 アブラハムがカナン人のカナンに
 入国することになるわけです。
 
 「イエスキリストの系図」にある
 ノアの子孫セム・ハム・ヤペテの三つの系図は、
 洪水後、私たちが思うよりも早く、
 そして想像以上に広い地域に
 拡がったことがわかります。
 それは「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」
 との神の言葉がいのちを生み出し、
 育む力として働くことの 
 力強い証になっているようです。
 

 
M.K記

 連絡先:090-2485-7908

 
 

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