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第八章 インド文化と祝祭「アーリア人の侵入」 [創世紀(牛角と祝祭・その民族系譜)]

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
《第八章 インド文化と祝祭「アーリア人の侵入」


  アーリア人のインドへの進出は

 紀元前1600年頃に始まり、

 紀元前1500年頃には

 西北インドへの進出が盛んになり

 定住が始まったとされる。

 しかし、

 実際アーリア人という人種は

 存在しないというのが最近の考え方である。


  中村元も

  「Aryan というのは語学的・

  文化的な呼称であり、

  人類学てきではない。」

 と述べ、

 カルカッタ大学のブルース・ハンナも

 1919年という時期に早くも

  「アーリア人いうような集団は存在しない。

  アーリアが実在するだけで、

  アーリアは形容詞に過ぎない」と

  "Culture and Kulture-Origins " 

 の中で述べている。

 

 その原郷を地中海沿岸にしたり、

 エラム Elām としている点は疑問とされるが、

 アーリア人種というものは存在しないと

 指摘した点は納得させられる。

 

 サンスクリット語における

 ārya は

 「信義の厚い、尊敬すべき、高貴な」の意味で、

 ārya-jana は語尾が

 「生命、生まれ」で「アーリア生まれ」、

 つまりアーリア人の意味であるが、

 「尊敬される人々」をも含む。

 

 また

 「ヴェーダを奉ずる人々」

 「神を崇拝する人々」であり、

 極めて「文化的呼称」なのである。

 

 そこには日本人、ギリシャ人のような

 地域的規定や出身種族の概念はない。

 

 短絡的な表現すれば「高貴な人々」である。

 

 彼等がインドへ到着し、

 最新の聖典リグ・ヴェーダが成立した

 紀元前1600年頃には

 階級的意味合いは無かったようだが、

 

 後になると、ヴァルナという階級構成ができ、

 バラモン(僧族)、 

 クシャトリア(武士)、

 ヴァイシャ(庶民)ができ、

 そのうち先の三階級までを

 アーリアは意味するようになる。

 

 第四のシュードラは

 非アーリアで先住民などをいうものとなる。

 

 このような経済を考慮すれば、

 ヴェーダという聖典を信奉する人々は

 アーリアというのである。

 

 ヴェーダに語られるのは祝祭を挙行し、

 神々に犠牲を献げることが主宰できるから

 参加できる人々の意であったと考えられる。

 

 彼等の住む地域を 

 ārya-vatra というが、

 ヒマラヤ山脈から

 ヴィンダャ山脈の間の平原を指して言う。

 

 ところで、

 現在のイランとアフガニスタンとの

 国境域に当たるシスターナは

 紀元前においてアリアナ Ariana と呼ばれていた。

 

 アーリア人がインドへ侵入する以前に

 留まっていたとみられる地域である。

 

 イラン人との国教ともみられた

 ゾロアスター教を始めた開祖も

 ここの出身と言われる。

 

 アーリア人、イラン人とも共

 同して居住していたか、

 まだ分離していなかったということであろう。

 

 アーリア人のインド亜大陸への侵入を

 北のヒンズークシ山脈を越えてとの見解もあるが、

 やはりこの西方のアリアナ、そして

 アラコシアを通り

 パンジャブ地方へ出たと考えるのが妥当である。

 

 アリアナから北方へ

 移動すべき理由があったのである。

 

 アリアナからを遡及すれば

 カンダハルから東方へは容易に移動ができる。

 

 第一章祝祭で

 アーリア人が重要視したものは

 牛と大麦であったことを紹介した。

 

 主に牛の飼育と大麦の栽培によって

 生活を保持してきた集団である。

 

 騎馬民族や羊を放牧する民族の移動は早い。

 

 羊は体躯が小さいものの、

 その草を食む喉頭の構造が前へ進まない。

 

 一方牛は静的で食べ始めたら前へ進まない。

 

 同じ所に立ち止まり周囲を舐めるように食べる。

 

 そのため牛を率いて移動するには時間を要する。

 

 羊の遊牧民は一夏に1000㎞をも移動が可能だが、

 牛を率いた場合は、そうはいかない。

 

 年数が掛かるのである。

 

 紀元前2500年頃メソポタミアを離れた

 バローチ人は1000年を掛けて

 現在のバローチスタンに到着している。

 

 それと同様の移動形態を

 アーリア人の集団には想定できる。

 

 紀元前1600年頃イランのアリアナ地方に定着し、

 一部がパンジャブ地方にみえるようになり、

 

 紀元前1500年頃に進出が盛んになり、

 紀元前1000年頃から

 ガンジス河流域に移動したという事実は

 たいへん遅いスピードで、

 時間をたくさん要している。

 

 次に大麦についてであるが、

 その主な生産地は西アジア、

 特にイラン西部の高原地帯は

 古来生産が盛んであった。

 

 ザクロス山脈の南方エラムに

 国の首都スーサはシュメル語で

 「大麦の種」 Su-se に依るものであり、

 ペルシャ名はスバル人(グルジア語)によると

 スパルシー sparusi で

 「種を播く人々」の意味である。

 

 ペルシャ人の祖地は

 スーサの南ペルシャ湾岸地方である。

 

 以上の状況を考慮すると、

 アーリア人の祖地はやはりイラン西部を考えられ、

 そのうち

 カーシャーン地方、

 エスハファン市からカーシャーン市の周辺を

 有力地として考える。

 

 ゲルマン人の祖地を追及した

 Ardestan と Ārān は

 その最も重要とする地名資料である。

 

 アルデスタンの Arede- は

 祭壇の alter と同根である。

 

 アラーンとはシュメル語に依存する用語で

 「神を賛美する」意味の 

 ār-e-en ないし ār-en を祖語とするものである。

 arede- が祭壇であるのに対する。

 

 Ār は「誉める」 

 e は助詞「~を」 

 en は「神」である。

 

 この節句からアラーン族に係わる Āran となり、

 一方

 サンスクリット語の ārya へと変化したと考える。

 

 その意味「神を賛美する」は「神を崇拝する」者、

 「尊敬される」「高貴な」者に対応される。

 

 紀元前2000年頃、

 この地方にシュメル語が

 入っていたかどうかでるが、

 当時この地方は

 シュマシュキ śumaśu-ki と呼ばれていた。

 

 これはシュメル語の 

 śumaśu と土地を表すとの合成語で

 「太陽神の土地」である。

 

 シュメル語の文法自体では 

 ki-śumaśu であるが、

 

 インド・ヨーロッパ語文法の手法では

 形容的修飾語が先になり、

 複数修飾語が後になる例に即している。

 

 Ār-e-en の例は 

 ab-re (踏みつける牛) の例のように

 かなり慣用語となっていたとすることができる。

 

 このシュマシュキ名は

 アーリア人が

 日種(太陽崇拝者)とする根拠ともなる。

 

 紀元前1800年頃

 この地方の北方からカッシート(カッシー)人と

 メソポタミアで呼ばれる部族が

 カーシャーン地方に侵入して来る。

 

 そのため、アーラーンの集団は分断され、

 一方は北方へ、一方は東方へと

 押し出される形で移動を始めたと考える。

 

 カッシートの部族も

 武力をもって侵入して来たのではなく、

 徐々にやってきたのであり、

 エルボレス山脈方面の集団と

 考えてもよいのではないか、

 

 彼等は南メソポタミアに入り、

 王朝を樹立する前に

 インド・ヨーロッパ族の神を

 信仰の中に取り入れている。

 

 シュリアンシュ(太陽神)と

 マルタシュ(戦争神)がそれで、

 それぞれ

 サンスクリット語の神

 スリア、マルタに対応する。

 

 また彼等の王名のうち

 紀元前1415年頃のカラ・インダシュや

 紀元前1300年頃のナジ・マルタシュも

 その影響で、

 インダシュはインドラに、

 マルタシュはマルタに対応される。

 

 カッシート族の南メソポタミア侵入は

 ヘブライ人の祖アブラムを

 カルディアからハランへ

 移動させるきっかけになったと考える。

 

 カーシャーン Kāshān を後にしたアーリア人は

 カビル砂漠の南を通って

 アリアナへと徐々に移動したことになる。

 

 そこに至るまで百年以上の年月を

 要したことになるが、

 この間に

 イラン人とインド・アーリア人との分離が

 起こったとみるのが妥当であろう。

 

 そして

 ケルマン地方にいたバローチ人も

 東方へ押し出したとみられる。

 

 アルデスタンで祝祭を行っていた人々は

 メソポタミアの祝祭文化を受け入れ、

 共有していたであろう。

 

 ブラーフマンのブラフ brah- は

 シュメル語の barg (聖所)と同義で、

 ブラーフマンは

 聖所のことをよく知る者のことと考える。

 

 仏教の祖ゴータマ・ブッタ、

 ブッタの出身種族シャカ族は日種であるが、

 その

 Šaka はシュメル語の suku あるいは 

 sug (神域・聖所)から由来した名称であろう。

 

 釈尊の思想には上の布幕の空白が示す

 「空間」が影響しているようにみえる。

 

 そのゴータマ Go-tam は

 「大きな牛」の意味であるが、

 シュメル語の牡牛 gu を移入したものである。

 

 デーヴィ女神がドゥルガーを制圧したが、

 その別称 

 Mahi-šura の šura も

 シュメル語の牡牛を意味する用語で

 「大きな牡牛」を意味する。

 

 祝祭に係わる用語 śum 、śumtr についても

 何回となく引用してきたもので、

 インドの祝祭もメソポタミアの祝祭と全く関係なく

 成立したものでないことを知らなければならない。

 

 シャカ族の渡来について、

 アーリア人の移動とは別に、

 アラビア海の向うメソポタミアから船で

 インド亜大陸へ到着した者たちとの伝承もあり、

 よりメソポタミアとの結び付きが

 強いことを考えさせる。

 

 さて、

 アーリア人とは「文化的呼称」であることが

 解ってきたが、

 それではその所属する種族名が

 何かを考えなければならない。

 

 ゲルマン人を検討した際、

 彼等の祖族が

 アラーン(阿蘭・奄蔡)人であることが

 確認されているが、

 この問題にもう一度踏み込んでみたい。

 

 アーリア人が

 ガンジス河流域へ侵入して来た当時

 強勢であったのは

 コーサラ国とカーンー国であったとの見解があり、

 両国が主体的勢力集団であったと考えられる。

 

 Kosala の表記には Kausala があり、

 Kāsī 国に近似するので近い関係だったとみられる。

 

 西イランの地方名 

 Kāshān と両国名は関係がありそうである。

 

 カーシャーンはギリシャ語の

 καθαρμα

 「浄められた場所、浄め」と同義と考えられる。

 

 Καθαρω(καθαρώ) は

 「清める、清潔にする、洗いさる」

 であるが、

 宗教的意味で「清める、浄祓する」となる。

 

 この語はドイツ語・英語にも入り Kosher となり、

 「掟に従った料理、清浄な食事」の意味で使われる。

 

 「これはユダヤ教の典範、

  食事規則に適った清浄な食事」のことである。

 

 ヘブライ語の kosher も「清浄な」の意味で

 「食事規定」は koshaer-uhe である。

 

 ギリシャ語の καθιεροω は

 「神聖なものとする、犠牲として献げる」で、

 κοθ- はシュメル語の

 「屠殺する」を意味する 

 śum の同義語 gaz が祖語とみられる。

 

 セム語 gaśi は

 「突き刺す」で「屠殺する」と同義である。

 

 Kāshān には ardestan(祭壇の町) 

 Ārān(神を賛美する)があって

 「清浄な土地」の名を与えられるには

 十分な土地柄といえる。

 

 kosher はコーサラ Kosala に、 

 gaśi(gaz)  は Kāsi に対応する。

 

 kosher はまた

 ユダヤ人が南インドの西インドに建設した町

 Cochin(Kāshān) の祖語でもあろう。

 

 アーリア人とはやはり「供犠の人々」である。


 『参考』

※Tell Arpachiyah (Iraq)


 

※アルパチア遺跡出土の碗形土器






M.K記
 連絡先:090-2485-7908
 

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